
著者:シェリー・ケーガン
訳者:柴田 裕之
出版社: 文響社 (2019/7/12)
価格:1850円
POINT:
イェール大学で23年連続の人気講義
余命宣告を受けた学生が、
命をかけて受けたいと願った伝説の授業の翻訳版!
どのような生き方をするべきか?
誰もがやがて死ぬことが分かっている以上、
この問いについては慎重に考えなければなりません。もし、死が本当に一巻の終わりならば
私たちは目を大きく見開いて、その事実に直面すべきでしょう、
-自分が何者で、めいめいが与えられたわずかな時間を
どう使っているかを意識しながら。(シェリー・ケーガン)
「死」という難しい問題に、著者は分かり易いように様々なたとえ話を挿入して様々な問題に正面から取組んでいて、読者の期待に答えています。
時間をかけて読んでいると、その例えって何だったかな?と思うこともありますが、哲学を本格的に勉強していない読者にも分かり易い本だと思います。(私には多少、例えがまどろっこしく感じましたが)
漠然と、死が怖いと思う人は多いと思うのですが、読み終わると死への恐怖が薄らいでいることを実感できるでしょう。これだけでも、時間をかけてこの本を読む価値はあるのではないでしょうか。
著者は明確に「死について」魂は存在しないとの立場をとっています。
「人(魂)は自分の身体の死後も存在し続ける」という主張は論拠を欠いている。私たちが有形物であることは間違いなく、そういう意味では機械と根本的には変わらない。ゆえに身体が死ねば、その人も消滅するのは必然ということになる。
誰もが死を悪いものと考えているが、そもそもなぜ死が悪いのかについては以下のように述べています。
たしかに私たちは死んだら存在しなくなる。そしてそれが悪いのは自明のように思える。だが「自分が存在しない」という状態が、自分にとって悪いことであるはずがない。自分が存在していないのなら、それが悪いことなのかも判断できないからだ。
死を悪と見なすうえでもっとも肝心な理由は、「死んだら人生における良いことをまったく享受できなくなるから」なのだ。
不死は悪いものだと断言してもいます。
老いや病を抱えながら永遠に生きたいと考える人はいないと思うが、健康的に生きられるならば不死を望む人はいるかもしれない。
定期的に記憶を失ったり、興味や目標を徹底的に変えていったりすれば、永遠に続く人生でも退屈から逃れられると想像することは可能だ。
だがそれが本当に「私」なのかというと大いに疑問である。結局私たちが求めているのは、自分が満足するまで生きられる人生なのだから。
最終章において自殺について考察していますが、最も以外に感じられたのがこの章でした。
キリスト教的価値観において、自殺は絶対にいけないと書いてあるのかと思いながら読んだのですが、自殺も正当化される場合があるとの結論でした。
安易に自殺を受け入れてはならないし、明晰な考えができなくなったせいで自殺願望に取り憑かれている可能性も考慮すべきである。
だが妥当な理由があり、必要な情報も揃っていて、自分の意思で行動しているとするならば、その人の自殺は正当になりうるのである。
時間があるときに、読みたい本です。
第1講「死」について考える
第2講 死の本質
第3講 当事者意識と孤独感――死を巡る2つの主張
第4講 死はなぜ悪いのか
第5講 不死――可能だとしたら、あなたは「不死」を手に入れたいか?
第6講 死が教える「人生の価値」の測り方
第7講 私たちが死ぬまでに考えておくべき「死」にまつわる6つの問題
第8講 死に直面しながら生きる
第9講 自殺
イェール大学教授。道徳哲学、規範倫理学の専門家として知られ、着任以来二十数年間開講されている「死」をテーマにしたイェール大学での講義は、常に指折りの人気コースとなっている。